Brionglóid
海賊と偽りの姫
海賊との再会
11
目覚めたとき、頭の中は真っ白だった。
長い夢を見ていたような気がする。その情景と、突然視界に飛び込んできた木目の天井との落差が激しくて、全ての思考が止まってしまったようだった。
だが、夢の内容は目覚めた途端にさざ波のように記憶の大海に引いてしまった。もう既に、どんな夢だったのか思い出せない。
とても愉しい夢だったはずだ。何もない天井を見て、胸の奥に悲しみが沸き起こるほど。
脳裏に散らばる夢の欠片を、ライラは必死でかき集めた。
薄らと憶えているのは、住み慣れた大きな屋敷とその敷地内の広い牧。庭に通じる入り口の短い階段に立つ両親の姿。厳しい表情ばかりだった厳格な父親の傍らに、母もまた、人形のような顔で黙って佇んでいた。実際の二人は、一緒にいる事は滅多になかったのだが。
その両親がやや遠くを見つめる先には、牧で馬を走らせる兄の姿があった。しかしその兄は最後に見た時と比べて、やや若いというか幼く、屈託のないその笑顔は今のライラよりも年若く見えた。
ああ、あれは昔の夢だったのだと、ライラは納得した。
そうだ。あの頃の自分はよく兄の後をついてまわり、馬を駆ったりしていつも外で遊んでいた。優秀な兄は両親の自慢で、ライラもそんな兄が大好きだったのだ。
牧の奥に近い所に、大きな橄欖の木が立っていたのを不意に思い出す。兄はその枝に釣床を吊るし、寝そべりながら本を読むのが好きだった。見ていて羨ましくなった自分は、ねだってよく一緒に木の上に乗せてもらったものだ。兄はいつも、父上には内緒だぞと、そう言って笑った。木漏れ日と、枝を揺らすそよ風が気持ち良くて……。
愛馬が病気で死んでしまったのはいつだったろう。母は屋敷から姿を消し、それから兄も数年の内に家を出てしまった。そして自分も。
あれは、もう再現されるはずのない、幸せな光景──。
仰向けに寝転がったライラの目尻から、涙が一筋伝った。
それを拭おうとして手を持ち上げ、そのあまりの重さに愕然とした。腕が鉛になってしまったかと思った。いや、腕だけでなく身体全体が。
「…………」
どういうことだ。ここは、どこだ?
ライラは愕然としつつ上体を起こそうとして目眩に襲われた。目の奥が苦しくなって、こめかみに鈍い痛みが走る。背中や腰の辺りで関節が悲鳴をあげた。思わず片手で目の辺りを抑えて目眩を堪えながら、ライラは肘を使って何とか上半身を起こした。
と、微かな痛みと共に、左腕に巻かれた真っ白い包帯が目に映る。何の傷だったのか、咄嗟に思い出せなかった。腕の内側というのは、戦闘で負ったにしては妙な位置である。剣を握っていたのであれば、こんな場所に刀傷を受けることは無い。
ライラは、今の状況を把握しようと神経を研ぎだす。
自分は……旅先の街で、居酒屋に立ち寄って……そう、薬を盛られた。そこから港を目指して……それからどうなった?
「う……痛ぅ……」
こめかみの痛みが一瞬強くなり、ライラはたまらず顔をしかめた。
余波のような鈍痛が、しつこく頭の中に居座っている。覚醒した以上長くは続かないだろうが、全回復するにはまだ少し大人しくしている必要がありそうだ。
自分が寝ていたのは、真っ白い敷布のひかれた寝台だった。部屋は妙に狭く、その面積の殆どを寝台が占めていて、後は歩くのがやっとという有様だ。あの居酒屋の裏手にあった、納屋のような小部屋よりも狭い。まるで壁が両側から迫ってくるような部屋だった。
それでいて窓もない。その代わり、壁際に火を灯した角灯が下がっていた。油の燃えるかすかな匂いがする。
(宿ではなさそうだ)
と、そう思ったところでようやく思い出した。
(ここは、ルシアスの船か)
腕の傷は、自分でつけたものだった。薬でぐらぐらと不安定に揺れる意識を何とか平常に戻そうと、愛剣の刃を当てたのだ、そういえば。
目を覆っていた手をずらして、ライラは前髪をかきあげてくしゃりと握り、苦い表情で深く息をついた。
(また、厄介な奴に借りを作ってしまった……)
それにしても、なんて様だろう。迂闊にも一服盛られ、恥を忍んで天敵とも言えるルシアスに助けを求めたはいいが、それに甘えて今の今まで呑気に眠りこけていたとは。
普段であれば、ここまで熟睡するなど有り得ない。横になっていても、意識のどこかは必ず起きていて、周囲に少しでも異変があれば目が覚める。何年もの経験で、身体がそういうふうになってしまった。だが、さっきまでの自分は、まさしく前後不覚の状態で眠りに落ちていた。
薬を盛られた為とはいえ、ルシアスが寄港していなかったらどうなっていた事か。そう考えると背筋が冷たくなった。
いや、元を正せばこれはルシアスの所為で、そもそもあの男がいなければこんな事態に陥る事はなかった。舞姫があの店に残っていたなら、自分だって何事も無く、今頃は街を後にしていた事だろう。そう、絶対にあいつに非がある。
そう思い込むことで己を奮い立たせようとするが、結局自己嫌悪の念を完全には消し去ることができず、ライラは溜め息をついた。
確かにきっかけはルシアスが作ったようなものだが、その危険を回避できなかったのはライラの責任だ。店の主の態度がおかしいと思った時点で、あの場を離れるべきだったのだ。これは完全に自分の失敗だった。それもとてつもなく初歩的な。
自分自身に腹が立って、ライラは舌打ちを漏らした。
いつまでもこうしているわけにはいかない。ルシアスの、人を小馬鹿にしたような皮肉っぽい微笑が脳裏に浮かび、一刻も早く起き出さなければと焦燥感に駆られたライラは寝台を抜け出した。……が。
「あ、れ……?」
ぐらりと身体が揺れ、ライラはまた寝台に押し戻されるかのようにペタンと座り込んでしまった。
「……」
信じられない思いでライラは自分の身体を眺め渡した。
いったいどのくらい眠っていたというのだろう。立ち上がる事すら出来ないとは……。それとも、まだ薬が抜けきっていないのだろうか。
仕方なく、ライラは座ったまま室内を観察しようと見渡した。
角灯ひとつしかないので、それほど明るくはない。火をつけっぱなしだったということは、自分の覚醒が近いと判断されてのことだろうか。
奥の壁際に四角い高卓があり、その上には水差しと水桶がある。視線を下げると、高卓の脚許にライラの持ち物一式が不足なくきちんと並べられていた。おそらくティオの計らいだろう。
とりあえず壁に手をつきながらそこまで行き、顔を洗い、置いてあった手巾を濡らして軽く身体を拭いた。手ぐしで髪をまとめ直し、衣服も整える。
一通り終えて寝台に座りなおしたが、腕もいくらか軽くなり、頭の中も幾分はっきりするものの、足腰にまだ問題があるようだった。気を抜くと、足がもつれて倒れそうになる。まだ完全に醒めきっていないのか、意識の中にもごく僅かながら違和感が付きまとう。
ちゃぷちゃぷと水桶の水が揺れる音に、ライラは再びそちらに目を遣った。
揺れる水面を眺めながら、ライラはぼんやりと考えた。
何かがおかしい。脳の端の方で何かがちりちりするような、奇妙な感覚だった。自分は何か大事なものを見落としているのだろうか。
そうしているうちに部屋の外側で物音がし、開いた入口の隙間からティオが遠慮がちに顔を覗かせた。
「ライラさん! 目が覚めたんですか?」
「ティオ……」